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    きーさん 添乗員日記
 
 
北陸中日新聞
      に掲載中
過去の記事
  ベトナムは今<1>
初添乗のころ<2>
長江横断遠泳大会<3>
ワインのお返し<4>
夫婦円満旅行の誕生<5>
沈まぬ太陽<6>
キーウエストの神風<7>
五番街ティファニー<8>
『ルンビニー園』<9>
機長と社長<10>
海の都で<11>
動物漫才<12>
ロードサイド店<13>
危機一髪?<14>
新入り操縦士<15>
スキーツアー企画<16>
『ほのぼの旅行』<17>
・出向を命ず<18>
ハイジャックに<19>
シンデレラ城<20>
休息とお祭りの島<21>
国際結婚<22>
ハイティー<23>
オリンピック<24>
買い物<25>
アスワンでの母娘<26>
ルクソールの休日<27>
大失敗の巻き<28>
自由行動日<29>
香港に始まって<30>



 

出向命ず
 『日本交通公社事業開発室勤務を命ず』
の辞令を受け取ったのは1978年(昭和53年)6月のことだった。

JTBに入社以来旅行の販売・企画を担当し、
ホテルや旅館、運輸機関などとの付き合いが深まるにつれて、
JTBから出向し、お客様を受け入れする関連企業を経験したいと思い人事申告をしていたころだった。

現在では、国内外にJTB関連企業が130社以上あるが、当時はホテルやスキー場など10社程度だった。

出向先はJTBが経営する名古屋ターミナルホテル(現ホテルアソシア名古屋ターミナル)に決まり、単身赴任することになった。

着任早々、ホテルの常務に1年間はホテルの全部門を勉強させて欲しいとお願いした。

最初の宿泊部門で研修中のある日、
東京のKホテルの名古屋営業所長が訪ねてきてホテルの宿泊部長と一緒に夕食をともにした。
開口一番
「これまで北河さんとは団体などの客室料金交渉でいじめられましたが、ホテルはなかなか儲からないことを充分勉強してください。」
とニヤリとしてた。
お客様をご案内する側から、受け入れする側に回ったことを改めて認識した。

その後、食堂・宴会・資材・調理を予定通り研修、
その後、管理部門を担当することになった。

このホテルは、客室の稼働率も常に90%を上回り、
毎日満員の状況であった。
また、結婚式披露宴が年間500組近くもあり、当時から大変便利なことで人気のあるホテルだった。

しばらくして、JTBがJR大阪駅にも新しいホテルをオープンさせることになり、その研修生を受け入れた。
大阪ターミナルホテルのS取締役とは当時社員寮で隣の組となり、大いに飲み、麻雀なども楽しんだ。


今、当社ではホテル、旅館へ歯ブラシから始まって家具・コンピュータなどを納入する部門も北陸で営業開始しているが、
その時の経験が大いに役立っている。
旅行業界とまた違ったホテル業界に人脈が今でも流れており、助けられることが多い。

出向は約束の3年が終了し、JTBに復帰した。

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