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初添乗のころ
「上高地へ1泊2日の添乗してくれ。」
上司から指示されたのは1962年(昭和37年)の夏、
JTB(日本交通公社)に入社して間もなくのこと。
加賀市のある医院の職場旅行で1泊2日の行程。
当時は、中学・高校の修学旅行や金融機関の積立旅行が盛んな時代だったが、職場旅行はまだ少なかったころ。
高山駅から濃飛乗合自動車のボンネットバスにゆられながら平湯温泉の旅館に1泊。翌日は雨の上高地へ―――。
看護婦さんにひやかされながらの初添乗は、今でも忘れられない。
旅行業界を知ったのは、高校在学中に九州への修学旅行で、担当の添乗員のかばん持ちをしたのがきっかけだった。
250人あまりの生徒を、引率の先生と協力して計画した旅行を、楽しく安全に案内する”添乗員”は何とも頼もしく感じた。
「変わった仕事があるもんやなぁ」
その時の添乗員が中村繁次氏で、中村氏はJTBの前身「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」に在籍、中国大陸内で支店網の拡大に貢献した手腕社員で、戦後帰国してJTBに復帰されたことを入社後知った。
ラーメンが真赤になるぐらい唐辛子をふりかけ、
「ガハハハ」と笑いながら、ズルズルと口に流し込むという大陸的な豪傑先輩であった。
国鉄(現JR)が周遊券を発売したのが1955年(昭和30年)でこれが国民の個人旅行への起爆剤となり、連日JTB各営業所の受付カウンターには、二重三重の人垣が出来るほど旅行の申込みが多くなってきた。
コンピュータのない時代で、宿屋乗物の手配からクーポンの発行まで、すべて手作業のため連日、会社で寝泊りすることもたびたび。
ある日、中村先輩が
「これからは、外国旅行の時代やぞ、英語の勉強しとけよ。」
早速、当時金沢市内では数少なかった米国人のお宅へ、英会話のレッスンに通いだした。
先輩の言葉通り、日本人の海外旅行が自由化され、海外パック旅行が新発売になったのは、それから間もない1964年(昭和39年)の4月から。
また、この年は東海道新幹線の開通や東京オリンピック開催など、観光業界にとっては大きな変遷期でもあり、添乗開化元年といっても過言ではない。
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